カーボン紙の歴史
■はじめに
ゼネラルは大正年間にカーボン紙メーカーとして創業しました。以来品質改良、流通ルートの整備、ユーザーへのきめ細かな情報提供などによって国内トップのメーカーとなったのです。かつてはカーボン紙はコピーが簡単に取れる唯一の手段として公文書から各種伝票に至るまで広く使われていましたがその後コピー機の出現により、需要は減少の一途を辿り、現在では弊社売上げ中に占める割合も僅かなものとなりました。しかし創業以来の社歴の象徴である事に変わりはありません。ここで弊社の創業当時の事情から戦後までを振り返り、カーボン紙の歴史を覗いて見たいと思います。■歴史
いつごろから日本でカーボン複写紙が使われ出したのか、はっきりしたことは分かりませんが、明治時代の後半には輸入品のカーボン紙が使われていたといい、これは「炭酸紙」と呼ばれていました。国産品では、明治の終わり頃にススを油で溶いて和紙に塗りつけたものが登場したが、触ると手が真っ黒に汚れるので評判は余り良く無かった様です。大正時代初期には塗液にワックスを混合して、汚れや滲みを押さえた炭酸紙が現れて、官庁向けなどに出荷されていました。ゼネラルの創業者芦田重之助は当時芦田永晴堂を営み、その先代のころより筆や付けペン用インクを中心に巾広く文具を扱っていたがカーボン紙の将来性に着目し、開発製造に着手した。そして当時としては珍しい自社ブランドを付け「ミカド複写紙」として発売し、徐々に業容が拡大するに至り、複写紙専業に徹するためゼネラルの前身である「東洋複写紙製造合資会社」を大正3年に設立した。これがゼネラルの創業時の事情で、その後益々シェアを伸ばし、輸入品も駆逐する勢いとなりました。当時の和紙カーボン紙製造法 | |||||
長火鉢にタドンを入れ、松脂の油煙からとったカーボンにワックスと油を混ぜたインキを鍋で温めて融かし、銅板の上に広げた和紙に1枚ずつ刷毛で手塗りしていた。作業を行う女性は流れる汗とインクで顔も手足も真っ黒になったと言う。 下左の写真は創業60周年記念映画での再現シーン |
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印刷用改行
< 資 料 > お断り:ここに掲載する当時の資料の中には現在では不適当と思われる表現がありますが、 歴史的資料としてそのまま提示する事をお断り致します。 |
■文献 |
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■社内報「あゆみ」記事より | ||||||||
「ゼネラルのあゆんだみち」1968(S43)/神能義雄 その1 入社のいきさつ その2 当時の工場の様子・塗布作業 その3 人々 その4 人々続き その5 洋紙カーボンへ その6 昭19年上海出張(工場建設計画) その7 上海出張続き |
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「二十五年のあゆみ」1964(S39)/田中恒夫 昭和初期の入社から戦後の工場新設など |
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「本社平野町時代を語る」1964(S39)/石黒吉種 終戦直後の様子など |
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■懐かしの広告 |
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